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2026.02

二戰時期日本民族主義思想的擴張與轉向(上)

這系列是基於我期末報告經過整理後的文章。選這題目是因為一直以來的好奇,剛好有機會砸時間研究,對這世界級的現象是如何發生、如何度過、如何被重新解釋,活下來的人又如何面對這一段漸漸遠離的事實。對我而言這就是一段歷史事實,但對那一代人來說,幾乎是切身的痛。

在我這一代人經驗中缺席的事,仍然不容懷疑的在當今世界留下太多痕跡,不管是看核彈科學研究、近代文化史也好、計算機的發展、世界文學、國際經濟地位、台灣自己的歷史,總是會在某刻撞上二戰,拋開這些理由,單是漫長活著的這些日子,了解二戰也是一件無可迴避的事之一。

中文摘要

以下為基於正文的摘要:

1. 橫光利一的戰爭責任判斷

  • 橫光利一(1898-1947)的文學生涯中,在晚年長篇小說《旅愁》《夜の靴》最能表現其思想與文學觀。
  • 但這些重要作品,在終戰之後1946年初立即受到美方的駐日盟軍總司令(GHQ)檢閱,被強制加筆修正作品內容。經過不斷改稿的一年多後,1947年12月病逝。
  • 改稿的例子好比《旅愁》中,有段原本表示反歐意識的文意,被改為親歐傾向,修改前為「長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨーロッパである。(那是長久以來,日本從中學習了種種事物的歐洲。也正因如此,讓日本不斷被迫忍受屈辱的歐洲)」,修改後為「そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。日本為了表示感謝不停地把自己獻給歐洲)」,此紀錄根據木佐木勝《木佐木日記》(1975)。
  • 而戰後,橫光被指名為戰爭責任者,不只是因為戰前的作品有國粹傾向,1940年起他活躍於日本文學報國會、大政翼贊會、日本文學者會等,1944年擔任日本文學報國會的小說部幹事長。
  • 指名橫光為戰爭責任者,是在1946年4月號的《文學時標》〈文學警察(五)〉特輯中,40名文學者被列舉出來,加藤周一評橫光為「將我們的日本與人民拉離『理性之道』的戰爭犯罪者」。再加上,1946年6月新日本文學會的小田切秀雄,在官方雜誌《新日本文學》列出包括橫光的25人,並主張罷免其公職。

2. 民族主義眼裡的特攻隊

  • 續前述,為了判斷橫光是否該背負戰爭責任者之名,還需實際看過他所寫過的文章。
  • 在橫光1945年3月寫的〈特攻隊〉一文中,的確清楚顯示了當時的國粹主義的意識形態。當時國家政策的思想戰所宣揚的「祭政合一」思想,也就是結合祭祀與政治,強調皇室的永恆與正統「萬世一系」、表示萬民齊一「億兆同心」。
    • 〈特攻隊〉「和一切告別的精神——這究竟是什麼。(中略)我認為這是從數千年、數萬年的太古傳承至今,最為純粹的世界精神的表現,好比滅敵這樣的鬥爭精神,無需和世上一切告別。好比遵循命運這樣的放棄精神,無需任何訓練。這是創造歷史的精神,毋寧說,是支撐與維繫創造精神的最崇高的道德精神。」
  • 不可忽略的是,當時二戰期間這類言論到處充斥。
  • 舉大日本言論報國會的官方雜誌《言論報國》在國家總力戰的政策下擔任思想戰一角發揮作用,其目的是統一國民的思想。《言論報國》的內容包括思想理論、主戰派文學短歌、甚至是市井心聲與體驗談等多樣內容,無需多言,這些文章都是為了達到其背後思想統一的目的。
  • 為了更透徹了解《言論報國》文章,作為基礎知識,需先釐清當時的戰況。
    • 特攻隊編成的時間點,是在太平洋戰爭中,1944年10月。
    • 詳細來說,10月17日美軍進攻菲律賓萊特島,日本展開捷號一號作戰後,20日第一航空艦隊司令官的大西瀧治郎作為代表,將特攻隊編成命令書向中央政府各機關發信。
    • 以菲律賓戰役中美國的損傷來說,10月末至11月初,美軍航空母艦包括 USS Intrepid、USS Franklin、USS Belleau Wood、USS Lexington、USS Essex、USS Cabot 破損導致離開前線送回國或後方修理。
  • 可以透過《言論報國》了解國家的指導層意識,他們又是怎麼看待特攻隊攻擊的呢。
    • 1945年1月號,明比甫〈年輕時的訓育〉中寫到,1905年的日俄戰爭沒有允許人間魚雷攻擊,1941年12月的珍珠港襲擊中山本元帥(山本五十六 1884-1943)允許了「歸還可能」的特攻隊出擊,但現在特攻隊之一的敷島隊隊長關大尉(関行男 1921-44)作者對於他表示「從關大尉身上能夠看見,一隻雛鷹是如何被育成一位超脫生死的人才。這正是真正的日本男兒,一位偉人!神一般的存在。這不就是年輕時的訓育所追求的極致展現嗎?」
    • 另外,1944年12月號刊,牧野吉晴有五首短歌,「迫り來し冠あふりたり太平洋わが神鷲の天翔けくだり」「靖國の秋のまつりの近くしてこの大戦果聞くも尊し」稱頌10月發生的台灣沖航空戰,雖此戰是在特攻隊正式編成之前,但實際上已能看到特攻攻擊發生。尤其是10月15日,第26航空戰隊司令官有馬正文,招集幹部們呼籲現在戰況危急,需要募集自殺攻擊的自願兵,未果,因此自己以身示範,摘掉軍服上的軍徽,抹除望遠鏡上的司令刻印,搭上一式陸上攻擊機,一去不返。這件事對後來20日正式編成特攻隊的決定有很大的影響。

3. 一窺戰時下的領導層:德富蘇峰的生涯

  • 在戰爭期間,日本國內宣揚的國粹主義思想已深入群體的思想當中,包括許多被舉發為戰爭責任者的知識階層,為何沒能迴避掉這種國粹思想的群體壓力?這些知識人對這些思想清洗如何反應?在下章說明這時代的知識人之前,先了解一下戰爭的主導階層,他們的一生怎麼過的,在此舉德富蘇峰為例,他的人生當中,以現在來看有太多地方可以批判,我就不特別贅述。
  • 作為日本文学報國會的設立者兼會長,德富蘇峰(1863-1957)在《言論報國》創刊號(1943年10月)的卷頭寫到,「今後英美反攻恐怕激烈嚴酷,......令人擔心的是全體國民的思想不統一,各個人心裡有各種懷疑.....」並動員當時著名的文化人參與編寫本誌。
  • 在1942年12月設立的主戰派言論人集結的「大日本言論報國會」之前,早在5月就已經成立半強制網羅當代的文學者加入的「日本文学報國會」,皆為德富蘇峰擔任會長。
  • 在終戰後1945年12月2日,被列為A級戰犯嫌疑人,隔年1946年4月因戰時期的言論責任,繳回文化勳章和勳二等旭日重光章,之後被剝奪公職,直到1957年去世前在熱海閉門自居。這期間,把共100卷的《近世日本國民史》完結(1952),另著《勝利者的悲哀》(1952)、《三代人物史傳》(1954-56)等書。
  • 之後會再提到,當時其實有20幾萬人受到公職剝奪,在戰後戰犯追查的過程中這些人是如何轉向,又是如何過後續的人生,更詳細的部分可以自行調查。
  • 加場補充:
    • 德富蘇峰一生中的多次轉向,可以用他在1895年寫的這句話來表示「維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては國民的膨張たり。(明治維新之前是尊皇攘夷,維新之後是自由民權,而從今以後,將是國家擴張)」(〈日本国民の活題目〉《国民の友》第263號)
    • 在教科書上,通常認識德富蘇峰通常是在他創立「民友社」(1887)並主編《國民之友》,立場是基本上是平民主義、自由民權運動的支持者,批判「(貴族式的)歐化主義」,並和政教社提倡的國粹主義呈對立狀態。
    • 但在甲午戰爭(1894-95)之後,蘇峰逐漸轉向國粹主義,和民友社本來的共識漸行漸遠,導致許多社員離開。而他也在1890年設立國民新聞社,主導《國民新聞》。是橫跨明治、大正、昭和時代的意見領袖。
    • 這時期的重要著作包括,1893年發表的《吉田松陰》,1894年甲午戰爭開戰時,親自前往廣島報導戰況並派遣戰地記者,同年12月發表《大日本膨脹論》。
    • 1896年為了解國際情勢,展開渡歐旅行。
    • 1897年,就任第2次松方内閣的内務省勅任參事官,一改以往批判政府的立場,轉往較為強硬的國權論、國家膨脹主義。
    • 日俄戰爭使國內財政瀕臨破產,背負沈重稅務的國民,只接收到新聞篩檢過的好戰果,因此對於對樸茨茅斯條約(Treaty of Portsmouth)日俄談判結果非常失望。民憤導致1905年發生日比谷縱火事件,《國民新聞》也被視為親政府報社,遭大眾抵制。民眾的反動逐漸醞釀後來「大正民主」的一系列社會運動。
    • 1911年,被任命為貴族院勅選議員。
    • 1918年開始撰寫《近世日本國民史》,是一部始於戰國,終於1877年的西南戰爭的歷史著作。於1952年完成。
    • 後略

日文正文

1. 横光利一における戦争責任者の容疑

文学分野で横光を研究すると、『旅愁』『夜の靴』など晩年の作品に関わることになるが、これらの作品は1946年ごろ、GHQの検閲による修正や加筆が繰り返されたことがある。一年を経て、1947年12月に病勢悪化のため亡くなった。彼の生涯の最後、前述の長編小説といった作品が集大成の段階であったが、当時の政策によって、思うままに創作できない状況は横光の研究者にとって見逃せない。例えば、十重田裕一(2015)が提起した『旅愁』では、西欧と日本との対立と葛藤が描かれ、連合国・占領軍の諸国についての言及に関して、検閲指針に抵触するものが少なからず見られた。以下では、その一部を例示する。

木佐木が日記のなかで指摘しているように、「そのため絶えず屈辱を忍ばせられたヨーロッパである」が「その感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパである」に、「反ヨーロッバ的な表現」が「原文の精神と反対な意味の字句」にそれぞれ書き換えられた。

なお、戦争責任者に指名されたのは、単に文学作品のせいではなく、1940年から文芸銃後運動・大政翼賛会や日本文学者会などで活躍し、1942年に日本文學報国会の小説部会評議員となり、1944年に幹事長となった。こうした経歴を背景として、1946年6月に新日本文学会の小田切秀雄が代表として、機関誌『新日本文学』に横光利一など25人の文学者を挙げ、「最大かつ直接的な戦争責任者」「文学界からの公職罷免該当者である」と断定した。また、1946年の元旦に荒正人、小田切秀雄、佐々木喜一によって創刊された『文学時標』の「文学検察」特集で横光を含め、計40名の文学者たちが戦争責任を負うものとして厳しく断罪された。そのうち、「文学検察」第五回で、「横光利一」への追及を担当したのは加藤周一である。加藤は横光を「我々の日本と人民とを「理性の道」の外へ導いた戦争犯罪人」として激烈に批判した。

2. ナショナリズム目線から見た特攻隊

戦争責任者に該当かとか、その実態を見極めるために、横光利一は当時どんなナショナリズム的傾向を持つ発言を確認しよう。横光利一の「特攻隊」(『文芸』、1945年3月)と題する文章の中、次のように述べている。

すべてのものから別れて行く精神——これはどういふものだらうか。(中略)私はこ精神を、数千年、数万年の太古から伝はつて来た、もつとも純粋な世界精神の表現だと思つてゐる。敵を滅ぼすといふがごとき、闘争の精神なら、すべてのものから別れる必要はない。運命に従ふといふがごとき、諦めの精神なら、訓練する要もない。歴史を創造する精神、といふより、むしろ、そのやうな創造の精神を支へ保つ、最も崇高な道徳精神だと思つてゐる。

この節について、田口律男(2000)は以下のように評している。

横光は、〈特攻精神〉を単なる敵愾心や諦念とは区別している。それは、国家をも超えた〈世界精神〉、つまりは、酒井直樹の言う〈全人類にとって真実であり正義である理念的なもの〉を〈創造する精神〉だと言うのである。ここには、特攻隊が体現した「主体」的な「責任」の自覚/遂行を〈最も崇高な道徳精神〉として称揚している。

さらに筆者が注目するのは、当時の思想戦の基盤である「祭政合一」イデオロギーに基づき、国粋主義思想を隠し持ちながら、国家の前で個人の権利を無視し、この行動を「宿命的」「本能的」と正当化するのは詭弁に過ぎないと批判できる点である。

しかし、戦時下では、そのような言論は少なくないというのは事実である。その証として、あとの『言論報国』での文学著作を見る前に、まず当時の歴史を振りかえよう。

太平洋戦争で、日本の特攻隊が編成された時点は1944年10月の頃である。特攻隊の戦果とアメリカ軍への影響について、これから基礎知識として簡潔に紹介する。

正式な特攻隊の編成の指示について、フィリピン戦期間中に、10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日に第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎が代表して編成命令書を中央各所に発信した記録がある。

フィリピン戦の戦果を例にして、物理的損害としては、多数の駆逐艦・補助艦艇を撃沈、110隻以上を損傷させた。母艦といえば、10月29日イントレピッド(USS Intrepid)、10月30日フランクリン(USS Franklin)、ベローウッド(USS Belleau Wood)、11月5日レキシントン(USS Lexington)、11月25日エセックス(USS Essex)、カボット(USS Cabot)が破損により戦線を離脱し、後送されて修理を受けることとなった。また、精神的影響も深刻で、戦争後期には「神風ノイローゼ」などの精神疾患の発症率が上昇したと報告されている。アメリカ海軍は異例の特攻対策集中会議を緊急開催するなど、戦略の面で大きな衝撃を受けた。

当時、指導層は総力戦体制の下で国民の思想統一を企図した。その一環として、大日本言論報国会の機関誌『言論報国』 には、理論的な論説から短歌、身近な体験談に至るまで多角的な内容が掲載され、国民をナショナリズムへと誘導する役割を果たした。例えば、1945年一月号の『言論報国』で、明比甫による「若き日の訓育」では、特攻隊について述べている。

日露の役東郷司令長官は人間魚雷として必死行を許されなかつた、山本元帥も真珠湾特攻隊に帰還の可能を見定めて許されたと聞く然るに今度は愛児に勝る部下を平然と再び還らぬ死地に向はしめる長官の熱涙呑んで無言のうちに叫び続ける血の叫び…生命を貰ひたい…如何に決戦場の苛烈惻々と胸に迫る。それに応へて死生を超越した雛鷲の成育した姿を敷島隊長関大尉の姿に仰ぎ見る。これこそ眞の日本男兒、偉丈夫の姿!神の姿である。これ若き日の訓育の極致か。

では、1905年頃の日露戦争と1941年12月で起こった真珠湾攻撃のことも言及している。その時はまだ特攻隊のような体当たりの行動を許されなかった。が、戦争末期にますます激化する時期はこういう結果となった。そして、タイトルである「若き日の訓育」は最後の一行にも触れていて、特攻隊員を「雛鷲」に喩えて、隊長の立派さを称揚していると見られる。こうした記述からは、当時の指導層を取り巻いていた特攻を美化する空気を窺える。

フィリピン戦の直前に起きた台湾沖航空戦は、アメリカ軍による「十・十空襲」を迎え撃つため、10月16日まで続けた。この戦いについて、二ヶ月後の十二月号の『言論報国』では、牧野吉晴の短歌5首が載せられた、次は2首をあげる。

台湾沖の凱歌

迫り來し冠あふりたり太平洋わが神鷲の天翔けくだり

靖國の秋のまつりの近くしてこの大戦果聞くも尊し

この航空戦は、前述した神風特攻隊が本格的に行動し始めたフィリピン戦の前に起きた。牧野の短歌によれば、台湾沖航空戦の時点ですでに体当たり攻撃は行われていた。その代表例が、第26航空戦隊司令官・有馬正文の行動である。有馬は敵空母撃沈のため体当たりの必要性を説いたが、志願者が現れなかったことを受け、日頃の持論である「戦争は老人から死ぬべきだ」を自ら実践した。老兵としての範を示すべく、10月15に彼は自ら体当たりを敢行したのである。有馬による先駆的自爆は現場に強い衝撃を与え、直後の組織的な特攻隊編成を正当化する契機となった。しかし、有馬は敵艦に達する前に撃墜されたという事実も見過ごせない。また、台湾沖航空戦の「大戦果」において、誤報による悲劇として知られています、ここでは割愛して詳述を省く。

特攻隊をテーマにする短歌は『言論報国』で数多く掲載されている。そのほか、特筆すべきことは、日本文学報国会が企画した『愛国百人一首』は、各種メディアの宣伝により、学校や家庭へ広く普及した。

3. 時代背景:『言論報国』と会長の生涯から見る

小田切秀雄らが挙げた戦争責任者のリストには、多くの文学圏で中核的な人物がいる。菊池寛・高村光太郎・火野葦平・小林秀雄・林房雄・佐藤春夫・武者小路実篤などを含め、なぜ戦争への同調圧力を回避できなかったのか、あるいは、なぜためらうことなく戦争体制に同調できたのか。この問題に対して、思想戦のことを提起しなければならない。

大日本言論報国会の機関誌『言論報国』とは、1943年10月から1945年5月まで全20号を刊行したものである。不二出版から復刻版を発行され、以下のように紹介した。

創刊号の「巻頭言」(徳富猪一郎)において、「米英の反攻は今後恐らく熾烈激甚を極めるであらう、……恐るべきは一億国民の思想の不統一にあり、各人各個の心中の狐疑にある、……」 と現状を分析し、思想家・言論人の結束をより一層はかるため、大日本言論報国会が結成され、当時の著名な文化人が動員されていく姿が本誌において画かれる。

徳富猪一郎は人々の「狐疑」に気づきつつも、疑問を解くのではなく、国民の思想統一を解決策とした。この強引な方法は現代では容認し難いと思われる。また、徳富猪一郎は徳富蘇峰のことであり、1942年5月に「日本文学報国会」を設立し自ら会長に就任、12月には内閣情報局指導の「大日本言論報国会」も設立され、同様に会長を務めた。前者は多数の文学者を半強制的に網羅したのに対し、後者は特に戦争協力的な言論人を選抜した団体であった。1943年に文化勲章を受章したが、終戦後1945年12月2日にA級戦犯容疑者リストに載せられ、翌1946年4月に言論人として道義的責任をとるとして文化勲章と勲二等旭日重光章を返上した。その後、公職追放処分で貴族院勅選議員などの職を辞して、1957年死去まで熱海に蟄居した。この間、『近世日本国民史』(1952年完結)・『勝利者の悲哀』(1952)や「三代人物史伝」(1954-56)などを書き続けた。

大日本言論報国会会長の生涯を通じて、その時代における言論人の人物像が窺える。次は、『言論報国』で実際にどんな内容が書かれたのかという理論面について紹介したい。